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南三陸町の大津波

 横浜に住む、私の弟の妻(義妹)が南三陸町志津川の出で、この度の津波で家が流失し、義妹の弟さんが地震発生直後に漁船で沖に出たまま、ようとして消息が掴めませんでした。地震発生から一週間あまり経ち、漸く、ひと伝てに無事の連絡がありました。携帯電話も流失し、連絡の手段が無かったのです。3月24日にAUの車載型移動基地局が開局するまで電話が通じず、南三陸町の詳しい被害の状況さえ分かりませんでした。その間、テレビでは、町役場もろ共に壊滅した様子が繰り返し報道されていましたが、町の人口の半分以上(一万人)が行方不明との情報もあり、人々はどうなったのか、不安と心配の日々を過ごしていました。3月末に東北道が全線開通するのを待ち、弟夫婦と私は、急遽、4月2日・3日と一泊で南三陸町へ行ってきました。

 支援物資は、携帯電話、自転車1台、カップラーメン約100食、餅、果物、菓子類、消毒用ウェットティッシュ、消毒用ジェル等15本、ヘッドライト等3個(それ以上買えなかった)、各種電池(買えるだけ)、男女下着、湯たんぽ2個、カセットコンロとガス、簡易トイレ・着替え用テント一組、汚物入れ黒色45リットルビニール袋100枚、トイレットペーパー24個入り一箱、ホッカイロ200個、などなど。そして、我々のテントや食料その他生活道具一式とガソリン20リットル+10リットル入りタンク、飲料水20リットル。それらを二日間で買い揃え(スーパーで、カートに大量のカップラーメンを積んでいると、客から冷たい視線を浴びました)、4月2日、午前3時半に横浜を出発した弟のワンボックスに、我が家で積み終ったのが、午前4時45分頃でした。もちろん、支援物資は兄弟間で手分けして買い集めたものでしたが、不足しているものを思い巡らし、手探りで集めたものでした。南三陸町だけで一万人が避難しているというのに、親戚のみを見舞うということに聊か割り切れない気持ちもあったのですが、訪ねて見ると、単なる杞憂に過ぎないことが直ぐに分かりました。

 宮城県南三陸町は、仙台、松島、石巻の北に位置し、気仙沼を挟んですぐ岩手県との県境となるリアス式海岸の典型的な魚業の町です。東北道・三陸自動車道を走り、桃生大郷で45号線に下りれば一路真っ直ぐです。走行距離は500kmを超えます。南三陸町に入るには、この東浜街道と本吉街道の二本のルートしかありません。果たして通れるのか?行って見なければ分かりません。

 本稿は、山行記録ではないのですが、会長の許しを得て特別に掲載させていただきました(写真をクリックすると拡大し、周囲をクリックすると再び元に戻ります。佐藤益國)。

 5031荒町  折立川の扇状地に戸倉・折立の町並みがあった筈です。しかし、建物の土台のみを残して、一軒残らず家は消えてしまいました。引き波によってさらわれたのでしょうか、建物の残骸さえ残っていないのです。遥か遠くの道路上のワゴン車は、浜へと向う我々の車です。ここは海から2~3キロメートルに位置する住宅街でした。
 5040若夫婦  何処からともなく現れた若い夫婦を見送る自衛隊員。流されてしまった自宅を探しているのか、それとも、子供を亡くしてしまったのか、杖を突き、足を引きずるようにして歩いていました。
 5088林集落  やがて、義妹の実家のある林集落に入りました。津波は、気仙沼線のこの土手で止まったのだそうです。ガードの向こうに潰れた家屋と瓦礫が見えます。手前左の道を入った所に避難所がありました。焚き火をしている人に、おそるおそる弟さんのの消息を尋ねると、家のあった方に行っているでしょう、ということだった。
 5095弟

 行ってみると、瓦礫の向こう側にあった筈の家は、いずことも知れず消えていました。行方不明だった義妹の弟さんが道を下って行きました。

 彼は、大地震の直後、仲間の漁師と叫び合いながら船に飛び乗り、沖に出て津波をやり過ごしました。その夜は吹雪で、石巻方面の空が一晩中赤々と染まっていたと言います。着の身着のまま船上で夜を過ごし、高鳴る胸を押さえつつ、暗いうちに港へ向かいました。瓦礫と残骸で埋め尽くされた海を掻き分けるようにして進むうちに、急に彼の船が見えなくなったのだとその時の様子を仲間が話してくれました。港に帰り着き、次第に明るくなると、目の前から忽然となくなってしまった集落を見て度を失ったそうです。仲間達は、その日一日彼を待ちましたが帰りませんでした。「トラブったな、」と思い、翌日、仲間と声を掛け合い、再び捜索に出たそうです。沖に出ると、幸いにも彼の船が見つかりました。しかし、船には誰も居ません。親しい船長が船に乗り移ろうとした時、船と船が離れ、船べりに思い切り脇腹を打ちつけてしまいました。息の根が止まるほどの苦痛を堪えつつ、船の中を捜索しました。発炎筒を焚いた跡があります。棒の先に結わえ付けた白いシャツが見つかりました。エンジンをチェックすると始動しました。「ヘラ(スクリュー)を見ろ!」と指示を出し、若者が吹雪の海に飛び込みました。やはり、と言うべきか、スクリューには魚網が絡まっていました。「よし!奴は生きている!確かだ!」と、確証を得て、船を曳行して港へ帰りました。しかし、彼は何時まで待っても帰って来なかったのです。その後、一週間も過ぎてから、他人伝てに石巻で生きていることが聞こえてきました。3月11日の大津波以來、街の明かりが消え、電話も通じていなかったのです。が、後日、本人の話に拠ると、突然、船が動かなくなり、暗い海の中に自分だけが取り残されてしまったのです。吹雪混じりの強い西風が吹いている。海を埋め尽くす瓦礫の中で沖へ沖へと流されて行きました。遠くからヘリがやってきた。発炎筒を焚いた。駄目だった。何度かやってきたヘリコプターに手を振り、必死の救助を求めたのですが、なかなか気づいてもらえなかった。これで終わりかと観念した時、人の乗っていない仲間の空船が近づいてきました。思いっきり飛び移り、すぐさま発炎筒を焚いた。ヘリが海面を舐めるようにやって来て発見され、ついにピックアップされました。ヘリは志津川へは向かわず、石巻の沖に浮かぶ海上保安庁の巡視船へ飛んで行きました。翌日、石巻港に飛んで行き病院に入院しました。偶然にもそこで志津川の知人と顔をあわせ連絡が入ったのです。

 5112潰れた家

 瓦屋根の母家と増築した二階家(右のトタン屋根)が、下の方に流されてぐちゃぐちゃになっていました。弟さんは潰れた二階部分に入りこみ、濡れなかった家財や大切なものを探し出ているのです。その姿は、魂を何処かに置き忘れてきたような空ろな眼をして、ただ体を動かしているだけのように見えました。

 

 5121布袋さまと  大黒天と布袋さまが海を見ていました。きっと、家の中で縁起の良い神様として祀られていたのでしょう。布袋さまは傷だらけで痛々しそうでした。

 私には避難所の様子を撮影することはとても出来なかった。床に毛布で横たわる人たちを見るのさえ痛々しかったのです。我々は、求められる物資をそこで下ろし、再び、東浜街道に戻って次の親戚へと向かいました。
 5327後藤宅  一晩お世話になったHさん宅は高台にありました。幸い屋根瓦が落ちただけで済みました。今、ここに身を寄せているのは二家族。当主の兄一家5人と、南三陸町上下水道事業所に勤めるWさん。Wさんは亡くした妻と共に身を寄せているのです。兄のKさんは食料品店を経営しており、遠洋漁業に出かける船団に食料を積み込んだりする大きな店でした。しかし、大津波は店舗と自宅を奪い去り、何一つ残さなかったと言います。残されたものは、回収不能の売掛金と数千万円の負債だけです。もう、やる気はおきないですね、89歳になるお祖父さんが居りますが、お祖父さんはチリ地震津波で無一文になり、50年間身を粉にして働き続けたものを再び失ってしまいました、と静かに話すのです。我々が残りの支援物資を全て下ろし終えると、Kさんが、すぐ街を案内しよう、急ごう、水尻橋が流されて仮設橋を自衛隊が架けてくれたんだが、時間制限があって、閉鎖される前に帰って来なければならないから、との声で我々は街へ向かいました。
 5279水尻橋

 南三陸町志津川の中心地は、この水尻川と八幡川の扇状地に広がった街です。仮設橋は、午前7時半から午後7時までしか利用できず、ここを渡って街へ入った者は、必ず時間内に戻って来なければなりません。(この写真は、翌日早朝に撮影したもの)左手に気仙沼線の橋があったのですが、手前の赤土は津波によって表土が剥ぎ取られた様子です。

 5164街に

 街に入った。泥土と瓦礫に埋め尽くされた街には人影がなく、自衛隊によって道路の瓦礫が取り除かれ、辛うじて通行できる状態でした。左手に町立志津川病院が見え、右手にスーパーなどが残りました。漸く、電柱が建てられ始めていました。が、電柱のみが異様に目立つのでした(車の中からの撮影)。

 5166志津川病院

 志津川病院。4階まで津波に襲われ、屋上に避難した患者達がヘリによって救助されました。

 5173防災センター

 幽霊のような防災センター。この隣に志津川町庁舎がありました。町長は、町議会の閉会の挨拶をしている最中に、激烈な地震に襲われました。職員は、直ちに避難を町中に呼びかけました。30分後、思いもよらない早さで津波の第一波がやってきました。町長初め職員30名はこの防災センターに集まり、第二波、第三波に襲われるたびに上へと逃げ、最後は屋上へと避難しました。しかし、とてつもない高い津波が容赦なく襲いかかり、或る者は屋上の手すりに掴まり、或る者は電波塔に攀じ登りました。すると、それまでとは考えられないような高く真っ黒な津波がやって来て、建物ごと飲みこんでしまいました。町長は激しく手すりに打ちつけられ、辛うじてその手摺にしがみついて助かりました。或る者は、手摺を握りしめたまま津波にさらわれて行ってしまいました。残ったのは僅かに10名でした。

 5183防災センター

 もう、陽が暮れようとしていました。

 5198防災センター

 防災対策庁舎の文字が見えます。

 5209南三陸町スーパーアリーナ

 町立ベイサイドアリーナ。高台にあり、ここには二千人が避難生活を送っていました。敷地は広く、消防車や自衛隊の車輌が並び、仮設建物の町役場もここに建てられていました。一画に白いテントが並んでいます。遺体安置所です。

 5210ボランティアセンター

 敷地の別の一画に、ボランティアセンターのテントがありました。情報を得ようと思いましたが誰も居ませんでした。おそらく、支援活動をしているのでしょう。

 5219魚市場

 魚市場です。

 5241養殖牡蠣

 海の中にあるべき養殖牡蠣が夕日に当たっていました。引き波によって再び海へともどったのでしょうか。

 5224街並みが

 消えた街並み。

陽も暮れて、我々は急いで帰途につきました。先ほどのHさん宅に戻り、私たちがテントを設営しようとしたら、「大丈夫だ、今夜はたまたま避難していた人たちがよそに泊まりに行ったから、大丈夫、家に泊まって」と言われました。被災した人たちが身を寄せている家に、我々が泊まり、食事をいただくとはとてもその気になれず強くお断りしたのですが、とうとう好意に甘えることになってしまいました。茶の間に上がると、仏さまがありました。老人介護施設のケアマネージャーで、車椅子のお年寄りを必死で避難させようとしている最中に津波に襲われ、帰らぬ人になってしまったのです。手を合わせると、やさしそうなお顔をした写真が添えられています。やがて、そのご主人が帰ってきました。弟さんや漁師仲間も集まってきてお酒を飲み始めました。ご主人は町役場の職員で、幸いにも年老いた両親は避難できましたが、ローンの終わらない家は流されてしまいました。それで、亡くなった妻と共にここに身を寄せているのです。彼は、あの日以来一日も休まず町へ働きに出ています。「女房は幸いにも次の日に見つかったんですけどね、早かった。岩手に行って火葬してもらってね」と。座は賑やかに、沖に出て行方不明となった弟さんの捜索の顛末を話している。次第に酔いが回ってきたのでしょうか、問わず語りにポツリポツリと話すのでした。顔はあの日から一度も洗ったことがなく、男は誰もが髭ぼうぼうでした。「にょうぼうがぁ、しんだってぇ、にょうぼうのことぉかなしむこともできねぇのかぁ、みずはいたつだからなぁ・・・やくばのにんげんはかなしむこともできねえのかぁ、それぁ、やすむやつはいるよぉ、しかぁしぃ、そんなことおれにはできねぇ、できねぇからぁ・・・さんがつもしがつもきゅうりょうがでねえんだ」と、髭面の頬が濡れている。

 流されずに済んだ高台の家には、親戚の者だけではなく近所の人々も身を寄せ合っていたのです。一時は、この家に20人以上も避難していたそうです。食料は直ぐ尽きてしまい、その後の一週間は食べ物がなく、畑の野菜を食べつなぎました。その後、自衛隊が隈なく探し当てて、食料と水を持ってきてくれたそうです。その夜は明るかった。町がサンヨー電気製の小型ソーラーパネル付ライトを届けてくれたのです。晴れた日に充電をしておけば、暗い夜の照明には十分な照度と時間のある優れものでした。私も少し酔ってしまい、「町長代理!」と、思わず大きな声が喉を突いて出てしまいました。「町の人のため毎日本当にご苦労様です。陣中見舞いに皆さんにお酒でもと思いましたが、とても飲んでいる場合ではないと思いました。それで、オロナミンCドリンクを買ってきました。僅かばかりで恥ずかしいのですが、どうか、皆さんで元気を出してください」と、ダンボール箱を差し出しました。髭面は自嘲気味に「チョウチョウだいりかぁ、」と、鼻白んでいましたが、受け取ってくれました。

 5325自衛隊設営

 翌朝、暗いうちに余震で眼が覚め、日の出と共に下の道路に下りて行きました。自衛隊のテントが設営してありました。傍の立ち木の下にはトイレのテントもありました。場所の選定は良く考えられており、右手の道を高さで3mも下ると、津波で運ばれてきた残骸が広がっていました。

 5308津波浸水想定

 もっと下ると、このような標識が眼に止まりました。今回の津波は、右手の集落の遥か奥まで津波が達しました。チリ地震津波の高さが、この町の防災基準だったそうです。誰もが、ここを超えて襲ってくるとは考えませんでした。そして、そのような集落の多くがほぼ全滅という死者をだしたそうです。

 5246気仙沼線

 浜へと下ってゆくと気仙沼線の線路が無残な姿を高台に晒していました。

 5250消えた線路

 登ってみると、中央を走っていた線路がありません。

 5255消えた鉄路

 対岸に橋台が見えます。水尻川です。ここに架かっていた何百トンもあるコンクリート製の橋桁が失われていました。対岸の左向こうに見えます。

 5258橋台

 さらに、200mほども上流の川の中にもう一つ橋桁が見えます。津波のすさまじい破壊力をまざまざと示しています。

 5268県営住宅

 県営住宅の4階まで海草や漁具がぶら下がっています。右手に見える防波堤はチリ地震津波を基準に造られたもので、水門までつながっていました。が、途中が破壊されて海に沈んでいます。地盤が75Cmも沈下しました。屋上に逃れた人たちは、膝まで洗われながら、寒い夜を耐えたそうです。

 5371戸倉小

 津の宮の集落を訪ねる途中にある、海辺に建つ戸倉小学校です。隣にあった体育館は、3月1日に完成祝いを行ったばかりでした。子供達の歓声はなく、ウミネコが空を舞っていました。その甲高い啼き声が、私の胸に突き刺さるようでした。生徒達は、ここから高台の戸倉中学校に避難しましたが、そこにも津波が襲いかかり、さらに逃げる途中で先生と生徒1名が犠牲になりました。

 5329トラックが

 2トントラックが・・・

 5342大黒天

 津の宮の防波堤にも布袋さまと大黒さまが海を背にして置かれていました。漁師さんは、残骸と仏様の沈む海ではこれから5年は仕事が出来ないと呆然自失でした。空しい心を抱え、なにかにと仕事はしているのでしたが。

 1425蓮花

 最後に蓮の花と木蓮の花を捧げ鎮魂とします。長文に付き合っていただき誠にありがとうございます。また、山の会にこのような機会を与えていただきましたことを感謝申し上げます。今回、南三陸町を初めて訪れ、駆け足で走り回り、僅かな表面しか見ておりません。しかしながら、親戚の弟夫婦に付いて行ったからこそ聞くことが出来た被災者の心の内の一端をご紹介できたでしょうか。あらためて共感することの心構えを学ばせていただきました。

 0142紅蓮  
 8584白木蓮

 夜来の雨の後、朝日に映える白木蓮です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

コメント / トラックバック 3件

  1. kumasan より:

     「なぜあそこに、なぜあんなにまで!」 「まさか!、想定外・・」 「ひとりじゃないよ!応援しています!」 「頑張ってください!こころより復興を願っています。」 「私たちは負けません!必ず立ち上がります!」 「かならずふるさとに帰って守ります。」 多くの感動のメッセージにこころを打たれます。日本のみならず世界中のこころを受け止め「世界は一つ!」を感じます。
     寝食を忘れ働く自衛隊員、警察、消防、公務員そして多くのボランテァの方々にこころより感謝申し上げたい。
     「自分になにができるか・・。」 自問自答の中で、今与えられている仕事、社会の役割をしっかりと努め、社会の経済を停滞させぬこと、被災地を忘れぬこと、被災された方々へ心を寄せること、役に立つ、できることがあればためらわずに実行することと心得ます。
     被災地に入り情報提供者の佐藤氏に感謝します。公式HP立ち上げの功労者であり、多くのボランテァ経験を活かし今後の活躍に期待を申し上げます。
                                       会長  熊谷 博

  2. masukuni-sato より:

    ちょっとちょっとぉ、言いすぎですよ。

  3. 佐藤益國 より:

     少し補足させていただきます。文中、お酒を飲むシーンがありますが、体育館の板の間でプライバシーもなく毛布にくるまっている方々よりは、確かに、自宅が残り、そこで起居できる方々が恵まれていると言えます。そして、お酒を酌み交わす一時を持てたことは、被災者にとって何よりも良いことだったと思っています。大切な家族を失い、住み慣れた家を失った方々が、悲しみに立ち止まることさえ許されず日々を送っています。その夜の私たちは、ただただ聞き役に徹しました。悲しみに打ちひしがれた人が、心の裡を吐露することなくして、慟哭することなくしてどうして立ち上がることができるでしょうか。
      平成16年10月23日に起こった中越地震のときとの大きな違いは、中越においては、地震による被害のみで津波被害がなかったこと。規模が比較的限定されていたこと。があげられます。我々が支援に行った冬は、激しい豪雪で、辛うじて傾いて残った家の屋根に湿って重い雪がのしかかりました。その雪下ろしに行ったのでした。そして、さらに大きな違いは、阪神・淡路震災のボランティの中心人物が、いち早く現地に行き支援センターを立ち上げたことです。北海道の或るテントメーカーが寄贈してくれた巨大なテントがそのセンターとなり、被災者からの個別の救援ニーズをそこで集約したのです。駆けつけたボランティアは宿泊場所と食事の心配は不要でした。ところが、今回の東日本大震災では、街の中に原型を留めているものは数えるほどしかなく何一つ残っていないことです。行政機能はもとより、電気・上下水道等ありとあらゆるものが失われている中で、どのように支援センターを立ち上げることが出来るのかなのです。今回は、現地活動をする前進基地とその後方支援組織が必要ではないでしょうか。

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